私と今日の世界 真沙美

MASAMI Twitter➡︎ @eyesmasami アメブロ➡︎ https://ameblo.jp/zarathu0310 大滝詠一さんと松田聖子さん・関取花さん・GLIM SPANKYが好きです。よろしくお願いいたします。

七夕 願い事を短冊にどうして書くの? 後編

【どうして願い事を短冊に書くの?】

  彦星と織姫が天帝に別れさせられた理由にしましても、7月7日の由来譚にしましても、わたしたちが七夕から受ける好印象とはまるでちがった話です。

  幼稚園や小学校・家庭などで、「なんで7月7日に七夕をやるようになったの?」、と、子供に聞かれましたら、答えに窮する感がありますものの、当初は裁縫や書道の上達を願うお祭りであった七夕は姿を変え、現代では、どんな願い事でも願っていい行事になっています(「大好きなチョコレートになりたい」by小学生)。

  では、どうして、短冊というものに願い事を書いて、笹にぶらさげるのでしょうか?


【霊力のある竹】

  竹は成長するのが早く、早いものでは1日に1メートルも伸びます。

  竹には、このような卓越した生命力や力強さがありますから、霊力があると、昔の人たちは考えていました。

  また、竹の葉には、御先祖様の力が宿っており、願いごとをかなえてくれる、とも信じられていましたので、願い事を短冊に書くようになったのです。

  ですから、短冊は、笹の葉に見立てられている、ということになりますね。

  しかし、現代では、“御先祖様に願い事を”、と思って書いている人はほとんどいないでしょう。

  やはり、彦星と織姫にお願いをしているのでしょうか?

  あの彦星に!?

  とはいえ、実行力はありますし、数々の難題を全クリアした彦星ですから、かなえてくれるかもしれませんね!

  願い事を聞き間違えたりして。
  ( ´艸`)ウフフ

 

七夕 7月7日が七夕の日にどうしてなったの? 前編

【ふたりが別れた理由】

  彦星(ひこぼし)と織姫(おりひめ)が天の川(あまのがわ)をはさんで年に一度あう伝説の日・七夕。

〈1年間、待ち遠しかったろうなぁ〉と、その日の夜空をあおぐわたしはロマンティックな気分になります。
(^∇^)

  でも……。

  ふたりが別れたのは、ふたりの意志によってではなく、神様である天帝の逆鱗(げきりん)に触れたから。

  その理由が、

 ラブラブすぎて、家ばかりにいて、働かなくなったから、

  ということを知りましたとき、

〈うっ、ロマンティックな話が……〉

  と思ったものです。


【どうして7月7日が七夕の日になったの?】

  七夕は、「神様」を「天帝」と呼んでいますように、発祥地である中国から日本の宮中に伝わって、民衆に広まった行事です。

  7月7日におこなわれますが、その日になった理由が、七夕の由来譚(ゆらいたん)、元になった話に出て来ます。

  その話と言いますのが、ふたりが別れさせられた理由のように、これもまた……。
  ( ´艸`)ウフフ

 

  次のような話なのです。ーー

 

  ある日、天界から地上にやって来た天女たちが羽衣を脱いで、水浴びを全裸でしていました。この裸の行水を彦星がのぞき見したうえに羽衣を泥棒。

  羽衣を盗まれた天女の織姫だけが天界へ帰れなくなりました(羽衣は、アンパンマンのマントみたいなんですね!)。

  天界に帰ったほかの天女たちは、なぜか助けに来てくれません。織姫は地球で生きていかざるをえなくなりました。

  仕方がないので、羽衣を盗んだ彦星と、生活のために結婚。のちに子供が生まれます。

  しかしある日、子供が唄っていた歌のおかげで、羽衣の隠し場所を発見。羽衣をすぐさま着た織姫は天界にサッサッと帰ります。

 

  彦星は、天女が残していったウリのタネを土に埋めました。やがて、ウリのツルが高々と育ちましたので、彦星はツルを登って、いざ天界へ。

  天帝と御対面。

「妻を返して♡」

「ダメッ!」

「一生のお願い♡」

「ダメッ!」

  会わせまいとする天帝に、ねばる彦星。

  天帝は、クッパのように、数々の難題を彦星に突きつけて、あきらめさせようとします。しかし彦星は、マリオのように全ステージを見事にクリア。

  さあ、いよいよピーチ姫に! じゃなかった、織姫に! と思いきや、「ウリを縦に割るな」と天帝に厳命されていたのに、彦星は「ウリを縦に割」ってしまいます。

  割れたウリから、水が激しくドバドバーッとほとばしり、辺りは大洪水!

  これがのちの「天の川」となり、彦星は激流に流されてゆきます。

  ε=ε=ε=ε= (ToT)/~~~ あ〜れ〜

  しかし、織姫は助けません。流されてゆく彦星に言いました。ーー

「さよならっ! 7日7日に会いましょう!」

「7日7日」、週一で会う、ということです。

  しかし彦星は、「7日7日」を「7月7日」と聞き間違えたので、年(ねん)にたったの1回、その日にしか会えなくなりました。

  しかも、川幅がだいぶある天の川をはさんでの逢瀬(おうせ)です。

 

  遠すぎて織姫が見えないよ〜。

 

  彦星って……。
  (*゚▽゚*)


  後編につづく!

 

生花を食する虎

  もはや人間はその限界に達し、終の鳴鐘を全身に浴びている。
  いまや俺の魂は超人を渇望し、新たなる進化を予感している。
  古往の俺は、あまりにも人間的、あまりにも人間的であった。
  それゆえ、人類のさらなる飛躍に対して確信が持てずにいた。
  果たして人間の生は蟻の永久運動のように可塑性がないのか。
  あるとき俺は精神深く潜航し、萎え滅びゆく世界を見渡した。
  煌々たる澄んだ星々と、崇高で可憐な旋律、広大無辺の空間。
  狼どもは淫靡に吠え立て唸り、羊どもは惰眠をば貪っていた。
  俺は草原に忍び寄り、炎を解き放ち、霊泉に毒をばらまいた。
  燃え盛る魅惑の虚空を斬り裂いて、汚泥を微詩に練りこんだ。
  逃げ惑う羊を絞め殺し、荒れ狂う狼に屠った肉を投げつけた。
  欣喜する狼を殴り殺し、陰気な焦土に屠った肉を投げ捨てた。
  俺はもはや欺瞞の世界に安穏する狼でもなければ羊でもない。
  俺はいまや人間と超人の端境にいる、生花を食する虎である。

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日本人の減少でエコになる日本の近未来 レジ袋削減では石油は減らない PART2

  拙文「レジ袋削減では石油は減らない」にコメントをいただきました。わたしの回答はそちらのほうのコメント欄にありますが、単独としても読めるものなので、一般的な一文に書き直したものを以下に掲載します。内容は、上記拙文とほぼおなじです。ーー

 

 

〈質問〉

「レジ袋削減では石油は減らない」を拝見しました。

  レジ袋の原料であるナフサを輸入しているとのことですが、レジ袋削減によってナフサの輸入が減るのであれば、レジ袋削減に意味があるのではないでしょうか。

  この点について御意見をお聞かせいただけませんでしょうか。

 

〈回答〉

  御質問とコメントを誠にありがとうございます。

  結論を先に申しますと、「レジ袋」の全削減によるナフサ減の“効果”は、日本の年間石油消費量に対して0.02%の削減、と仮定されます。

  これを、どのように考えるか、ということになるのではないでしょうか。

 

【1万個中2個のビー玉がなくなる意味とは?】

  本文では、「レジ袋」と「原油」の「輸入」について言及していますが、「ナフサ」そのものも「輸入」しています。

  原油精製による国内生産分だけでは国内需要をまかなえませんので、「ナフサ」の国内需要分(4575万㎘=2013年度)のうち例年約6割を輸入しております。

  本文にしたがって申しますと、日本の「レジ袋」年間消費枚数は約300億枚。それに費やされる石油は約39万㎘。ナフサの需要分に対する割合は0.8%になります。

  しかしながら、「レジ袋」300億枚のうち「輸入は“7割”、国産は3割」ですから、日本が「レジ袋」を作るために使用するナフサの量は、39万㎘×30%で11.7万㎘になります。年間のナフサ需要分に対する割合は0.25%。

  ナフサの「輸入」に関しましては、「レジ袋」を根絶しますと、数字的には、ナフサ輸入量2745万㎘(ナフサ総需要量4575万㎘×輸入60%)に対して、国産「レジ袋」のためのナフサ11.7万㎘のうちの何割かは、輸入する必要はなくなるかもしれません(11.7万㎘は、国内での原油精製によるナフサと輸入ナフサをあわせた量と考えています)。

  かりにそうだとしますと、ナフサの国内需要分のうち6割が輸入ですので、この数字にならいますなら、11.7万㎘×60%で、およそ7万㎘を輸入する必要がなくなると仮定されます。日本の年間石油消費量約2億6500万㎘(2013年度)に対する割合は0.02%。

 

  これは、1万個のビー玉が入った立方体にたとえますと、そこから2個のビー玉がなくなった、ということです。

 

「レジ袋」を全廃したとしましても、1万個中ビー玉2個の削減なのであります。

 

  この程度の減少をどう見るのか? 果たして意味があるのか?
「レジ袋」の40倍以上も「海洋ゴミ」になっているというペットボトルはほったらかしのままなのか?

 

  現実は、レジ袋を廃止ではなく、売りつづけているのですから、「ビー玉2個」分の削減には遠くおよばないでしょう。

  かりに「意味」があると考えたとしましても、ナフサの輸入先国が、日本への需要が減ったので他国におなじ量を輸出したり、石油の消費ペースが世界的におなじだったり増えたりしましたら、元も子もなくなります。環境運動が他国と連係しなければならないゆえんです。

 

  以上を回答といたしますが、以下、ちょっと付言いたします。


【日本人の減少でより「エコ」になる近未来】


  資源エネルギー庁によりますと、2030年度の石油需要は、2010年度に比して3割ほど減少するとのことです。2020年度からでは20%の減少になります。

 

  石油の中でもガソリンの落ちこみはさらに激しく、2010年度には5200万㎘もあった需要が、2030年度には60%減の2100万㎘にまで落ちこむと予想されています。2020年度の予想需要3600万㎘からでは40%の減少です。

 

  石油需要のこうした激しい下落は、次世代自動車の普及や車の燃費改善・少子高齢化などによるものです。

「レジ袋」全廃の想定される効果がナフサ7万㎘の削減ですから、何百倍もの石油“削減”ですね。


少子高齢化」が急激にすすむ結果、日本の人口は2017年の約1億2800万人から、2100年には約6000万人に減るのですから[注]、日本人が半減してゆく近未来の日本は、石油削減ではなく、日本人そのものの急減少によって、「エコ」なことを特別にやらなくても、十分により「エコ」な世界になっていくことでしょう。

 

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画像は、https://mobile.twitter.com/YS_GPCR/status/1284031182670192645さんからの孫引きです。

画像の出典は、https://mobile.twitter.com/TheLancet/status/1283167416839811082になります。

 

 

 

[注]

https://www.cnn.co.jp/fringe/35156792.html


〈参考資料〉

https://www.paj.gr.jp/about/data/sekiyunoQA.pdf

https://www.paj.gr.jp/statis/data/data/2018_data.pdf

 

 

No Reducing Plastic Bag Reduces Oil

【Less Plastic Bag Means Less Oil ?】

  Raw material for petoroleum product such as plastic bag is the refining of crude oil.

  If we roughly list the purified oil in the order of their ease of “evaporation”, they look like this[note1].ーー

  ①Oil and Gas(most “evaporable”)
  ②Gasoline and Naphtha
  ③Kerosene
  ④Diesel oil
  ⑤Heavy oil and Asphalt

  The gasoline and the naphtha are colorless and clear. The former is colored orange to distinguish it from naptha and the like.

  Since the raw material for plastic bags is naphtha, one of the rationals for "The Plastic Bag Reduction Movement" is that if we reduce a great number of plastic bags and everyone carries "Eco-Bag", we will consume less oil and be more environmetally friendly.

  It is said that "marine debris" [note2]will also be reduced.

  But does the plastic bag reduction really lead to less oil consumption?


【Less Plastic Bag, More Unused Oil】

  Even if crude oil is refined, it cannot be made in the way that 100% of crude oil is converted into 100% gasoline.

  The proportions of the various types of refined oil(in technical term, yield) are roughly determined, such as this amount for kerosene and this amount for gas.

  The cold winter may increase the production of kerosene. But that is only to the exent that you can adjust yield to reduce gasoline by a few percent and increase kerosene by that much. Because of the nature of crude oil, you cannot change it in such a way as to increase the yield of gasoline to 90%.

  When you refine crude oil, you can get various types of fresh oil at a certain rate absolutely. Naturally, naphtha, the raw material for plastic bag, is also produced.

  Of course, if you cut back on a certain amount of plastic bags, you will get rid of those bags. If that happens, very poor sea turtles, fishes, and whales, who die because they drink or eat plastic bags, will survive.

  But as long as we continue to use oil at the same pace as before, even if we reduce or eradicate plastic bags, we will only get more unused naphtha. The excess naphtha will be used for other purposes, such as plastic bottles, clothes, and socks.
  If that happens, there will be no reduction in marine debris too.


【The Car Society Is Untouchable】

  The Japan's annual oil consumption is about 233 million kiloliters.The number of plastic bags consumed annually is about 30 billion bags.

  It takes between 8.2ml and 18.3ml of oil to produce one plastic bag of various sizes[note3], and if all 30 billion plastic bags are 13ml between them, that means that about 390,000kl of oil is used.This is about 0.16% of Japan's annual oil consumption.

  In reality, however, imports account for 70% of the total amount of plastic bags, and the domestic productions account for 30%[note4].
  So the percentage of Japan's annual oil consumption is only about 0.05%.

  In contrast, the percentage of gasoline consumed for automobiles is 22%.That is 440 times more than the plastic bag consumption[note5].

  Should we do something about the car society instead of bragging smugly eco-friendly my smart bag or eco-friendly self-made paper bag?


【Rethinking Modern Society】

  Reducing plastic bag will not reduce oil consumption, “as long as we continue to use oil at the same pace” we have been using it.

  That is why I think "The Plastic Bag Reduction Movement" is idle talk.

  There are some people who believe that Earth is not warming, but is cooling, and that the carbon dioxide warming theory is false.

  But if we really want to realize the intention of environmental protection, we need to focus on modern society and life that consumes a lot of oil.

  We need to change many things to reduce oil consumption.

 

[note1]

https://oil-info.ieej.or.jp/whats_sekiyu/1-11.html

 

[note2]
"Marine debris" is a generic term for "submarine debris", "drifting debris", and "drifted debris".

Submarine debris is submerged at the bottom of the ocean.

Drifting debris is drifting at sea or in the ocean.

Drifted debris has washed up on the shore.

 

[note3]

https://www.env.go.jp/recycle/yoki/c_1_questionnaire/pdf/h25/3_7_1.pdf

 

[note4]

https://www.meti.go.jp/policy/recycle/main/data/research/h20fy/200811-2_mri/200811-2_2.pdf

 

[note5]

https://www.meti.go.jp/policy/recycle/main/data/research/h20fy/200811-2_mri/200811-2_2.pdf

 

 

 

 

 

 

 

 

私の本棚

  知識は、ないよりは、あったほうがより良いことだろう。それが豊富であれば、卑近では資格試験や入学試験の多くを乗り越えることができる。これは、知識を保持する効用のひとつである。しかし、知識そのものが絶対的なものであるかとなると、必ずしもそうとは言えず、不確実な知識がすくなくない。


【富裕な水呑百姓】

  日本では、日本の学校教育により“農民は百姓である”と長いあいだ生徒たちに教えて来た。このことは一般的な人々の知識となっており、いわば常識でもある。しかし、この知識が非常識であって誤りであることが、日本中世史の大家である歴史学者網野善彦氏など一部の学者たちの調査・研究によって近年実証された。

  百姓は、その字面どおり「百」の「性」、すなわち一般人のことであり、農民のみを指して言うのではない。「古代はもちろん、中世でも百姓のなかには間違いなく非農業的な生業を“主”とし、農業を“従”としていた人々がたくさんいたことは明らか」[注1]であり、中には神主もいた。

  また、貧しさを容易に想像させる「水呑百姓」は“土地を持たない貧農”と言われるが、実体は、鉱山経営や製塩業など総合商社のようなことをしていた「水呑百姓」や、廻船人や職人・商人といった都市民である「水呑百姓」、というように多様であった。土地を持たなかったのは、「廻船や商売で大儲けをして巨大な富をもっているので、土地をもって耕作をする必要」[注2]がなかったからにすぎない。 公教育による「常識」・「知識」の正体とはかようなものだったのである。


【現代的リテラシー

  知識の確実性がそのようにあやふやである可能性がある以上、知識の入手方法がどんなものであれ、どんなに知識を持っていたとしても、その量が豊富であること自体、「良いこと」であるとは言い難い。そう言い切るには、知識の正確さを見極める力を通して得た知識であることが必要である。その「力」とは、具体的にいえば検証力や論理力・思考力、そしてそれらをあらわせる表現力や記述力などであろう。いわゆる現代的リテラシーである。これらが乏しいと、たとえば誤りをもちいてデタラメを言うことになる。

  いわゆる知識人・専門家が、その肩書きにふさわしい圧倒的な知識量を誇って駆使しながらも、みずからを裏切って非論理的なことをのたまう例がしばしばあるのは、詐欺的プロパガンダや捏造に見られるような作為は別として、知識の正確性をはかる力の欠如、論理力の貧弱さなどが原因であろう。つまり、論理の構築度と知識量は正比例しないのである。だからこそ、知識をあまり持ちあわせていなくとも、説得力のある、論理性の高いことを言う“賢者”の例がよくあるのだ。


【能動的な読書を】

「私の書棚」にある「書」の数々は、その規模が大きいにせよ小さいにせよ、多くの場合その「私」に影響をおよぼしたにちがいない。読んだ本の冊数が多いほど、その「私」は知識が豊かであり、物知りであると言えるかもしれぬ。しかし、その主張するところは、上述のように非論理であるという可能性は考えられうる。

我が闘争』や聖書のような思想、情感で味わう詩なら「非論理」でもかまわないであろう。「書棚を見れば、その人の思想がわかる」としばしば言われるが、「思想」らしきものは、たしかにある程度は把握できるにちがいない。もっとわかるのは、好み・嗜好である。しかしながら、「検証力」などまでは、その読書人の話を聴いたり、それと話したりするまでは皆目わからないであろう。

「私の書棚」について、自分が如何に学び、「私」の世界がそこにあると述べ、勉強量や知識量の“ものすごさ”を暗にほのめかしたとしても、ときには「書棚」の目を見張る蔵書量を公開して「知の巨人」ぶりを堂々と誇示したとしても、偏見に満ちた誤謬のもと女性差別を主張して護持する例もあり、つまるところおめかしにはならない。

  自分では考えないまま読書をすれば、頭の中には自分の考えは見当たらず、他人の考えでいっぱいになってゆく。受け身の読書では、本を読めば読むほど愚かになってしまう。知的に見せようとしても、知的に見えても、話したところで受け売りである。

  肝心なのは、読書によって、「論理力」などの総合力をどれだけつちかったか、ということであり、己の意志によって、学んだことも使って何を表現するのか、何をするのか、ということだ。このことに無頓着な読書であるならば、「私の書棚」はゴミ溜めとなり果て、その「私」は、矛盾・過ちがすくなくないミニマムな欠陥辞典にすぎなくなる。


[注1]網野善彦著『日本史再考』(日本放送出版協会)。

[注2]網野善彦著『日本史再考』(日本放送出版協会)。

 

マネー=クリスマス! 上編

【イルミネーションの光と闇】

  クリスマスの時期になりますと、クリスマス用のフライド=チキンや贈り物・唐揚げ・ケーキなどが目につくようになります。

  昨今では、家の窓からぶらさがった縄ばしごをのぼってゆくサンタ人形も散見されるでしょう。内側から光るサンタ人形を飾る家主のイメージとしては煙突をめざすサンタですが、サンタをよそおった泥棒にも見えます。

  また、クリスマス仕様の電飾(イルミネーション)を外壁などに飾る家もあります。こういう家は、1970年代80年代にはまずなく、90年代の終わりごろから増えてきました。ディズニー=ランドの影響でしょうか?

  ある地区では、一軒が電飾を始めたところ、ほかの家もやるようになった結果、「イルミネーションの街」として有名になりました。ちょっとした観光地になったため見物人がたくさん来るようになっています。

「電飾」の家の住人には、「イルミネーションの街」としてオカネをかけて有名になった、という思いがあります。

  また、おなじ地区でも「電飾」をしない家のせいで、「イルミネーションの街」の所々が虫食いのように暗くなっているため、「電飾の家」には「電飾をしない家」が不満のタネになっています。

  一方、飾らない家にとっては、大勢が押し寄せるせいでゴミの散乱や交通渋滞・騒音が生じるので、夜の静穏や睡眠がさまたげられることが「不満のタネ」になっており、その矛先がむかうのは「電飾の家」です。

  こうした双方の「不満」の結果、住民同士の仲はうまくいっていません。

「イルミネーションの街」、光あるところに闇ありです。


【イルミネーションは顕示消費】

  こういう顕示消費行為そのほかの商行為はクリスマスの風物詩です。

  しかし、色つき電球で家を粉飾しないとか、クリスマスには贈り物をしなさいとか、お寿司やチキンを食べなさいとか、そういうことは聖書には一切書かれていません。

  また、日本に見られるような、諸外国からは白い目で見られている傾向にあるカップル(日本語で言うと「つがい」かな)の「性なる夜」(聖なる夜)についても書いていないのはもちろんのことです。

  にもかかわらず、クリスマス=プレゼントをクリスマスにするのはどうしてなのでしょう? 何か尊い聖なる理由があるのでしょうか?


【クリスマス=プレゼントの始まりは?】

  アメリカ合州国では、11月の第4木曜日に始まる感謝祭(thanksgiving day)からクリスマスまでの1ヶ月間、クリスマス商戦がつづきます。

  その売り上げは約50兆円。生み出すゴミは500万トンほど(マツコデラックスさん何千万人ほどのデラックスなムダづかい・重さ)。多くの人はカードで借金してまで物を買っています。

  物欲にまみれたクリスマス=プレゼントというこの“慣習”は、それほど人々に根づいているわけです。かと言って大昔からつづいている商行事ではありません。悠久の歴史から見ればごく最近のこと。今から100年ぐらい前のことです。

  ニューヨークに本部をおく世界最大のデパート《Macy's》(メイシーズ・1858年設立)がクリスマス=プレゼント運動を大々的に商行為として始めました。

  年末に商品が売れ残っていると税金を払わなければならないため、そうならいっそのこと商品を安くしてクリスマスに大売り出しをして、余計な税金を払わずにカネモウケをしよう!

《Macy's》のこの商魂が、現代的なクリスマス=プレゼントのキッカケです。

  また、保護者が子供を徹底的にだます最初の出来事と言っていい「サンタさんからのプレゼント」も《Macy's》が始めました。

  より多くのヒゲソリを使ってもらうために“ムダ毛の処理で美を”というような美辞麗句をもとにした宣伝で女性にもヒゲソリ(カミソリ)を広めた会社のように、《Macy's》も需要のないところに需要を喚起したわけです。

  当時の《Macy's》としては、自分たちの理屈づけや「企画」がカネモウケの手段にすぎないことを百も承知であったことでしょう。資本主義は、知っている者がそうではない者を利用してカネモウケをすることだ、とも言われますが、《Macy's》の商行為にもそういう点が見受けられます。アニメの『サザエさん』が、サンタのプレゼントがインチキであることをバラしますと、「子供たちの夢を壊した」と憤慨して、テレビ局に抗議する人たちがいるほどの大成功です。


【サンタのモデルが実際にやっていたこと】

  伝わっている話によりますと、サンタのモデルである実在の人物ニコラスは、そういう保護者たちとはちがって、自分の子供ではない子供たちに、木製の、ニコラス手製のオモチャをあげていました。聖なる慈悲ある行為です。

  決して、決して、自分の子供だけに何かを食べさせてやったり、「自分の子供だけに何かを」やる行為は、サンタの精神ではないのです。

  プレゼントをするなら、「タイガーマスク運動」のように、養護施設にもプレゼントやケーキを贈るのもいいかもしれません。

  そもそもクリスマスは「イエス様のお誕生日」であるはずなのに、当のイエスに贈り物(たとえば供物=くもつ)をするのではなく、自分の子供や恋人・妻・夫などに贈り物をするのは、贈る相手が間違ってはいませんか? 誕生日である当人のイエスにケーキではなく、自分たちで食べるのはなぜ?

  (@_@)


【イエス様と崇めているのに誕生日を捏造】

  クリスマスはイエスの誕生日、ということになっています。しかし、クリスマス=プレゼントなどと同様、聖書には、イエスの誕生日は記録されていません。

  12月25日がイエスの生誕日だというのもデッチアゲなのです。イエスの誕生日とはぜんぜん関係ありません。

  誕生日捏造の起源には諸説あります。

  キリスト教に宗旨替えした古代ローマ人が、太陽神ミトラスを祭る日だった冬至を誕生日にした、という説が一番有力な説です。もともとは、冬至の儀式をおこなう日でした。

  誕生日と言われる12月25日とイエスには関係がありませんから、ロシアでは、クリスマスを1月におこないます。正教会(Orthodox Church)では、ギリシャの国教であるギリシャ正教の教会のクリスマスは1月6日です。

  おまけに、クリスマスには欠かせないクリスマス=ツリーも、あぁ、またしても、クリスマスとは関係がありません。

  クリスマス=ツリーに使われるモミの木は寒いところに生育するマツ科の常緑高木(じょうりょくこうぼく)。イエスの生誕地である暑いエルサレムには生えません。

  イエスの誕生日と「ツリー」は無関係なのですから、「ツリー」を飾ってクリスマス、そして「プレゼント」、しかも誕生日ではない人への「プレゼント」という行いは、デタラメのお重箱なのですね。

  しかし、それにしても、どうして「ツリー」が飾られるようになったのでしょうか?


中編につづく!
(*´∀`)♪