私と今日の世界 真沙美

MASAMI Twitter➡︎ @eyesmasami アメブロ➡︎ https://ameblo.jp/zarathu0310 大滝詠一さんと松田聖子さん・関取花さん・GLIM SPANKYが好きです。よろしくお願いいたします。

相田みつをと野田佳彦の“美意識”・アンデルセンの人種差別

【ドジョウだもの】

社会保障を立て直す国民会議」代表の前首相・野田佳彦さんは、2011年8月29日におこなわれた民主党代表選選挙前の演説でこう言いました。

相田みつをさんの言葉に『ドジョウが金魚の真似してもしょうがねぇじゃん』というのがある。ドジョウだが泥臭く国民のために汗をかいて政治を前進させる」

  相田さんの言葉は、正確には「どじょうがさ金魚のまねすることねんだよなぁ」です。

  世の中の一切の物、無生物にも生物にも「仏性」があり、潜在的に仏なのだから、ドジョウが金魚のマネをわざわざしなくてもいいんだよ、ニセモノになってしまうよ、ドジョウのままでいいんだよ、ということです。

「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)という仏教思想ゆえの言葉であります。


【醜いからこその喝采

  野田さんの場合、金魚のようには派手ではない「ドジョウ」のような自分が「泥臭く国民のために」がんばる、という決意表明でした。このことも功を奏してか、野田さんは代表選で選出され、のちに第95代内閣総理大臣になりました。

  私たちの代表者であるはずの政治家という権力者が自らを「ドジョウ」にたとえる謙虚さ・意外さ。このギャップによる“誠実さ”に共感した人が多かったからこそ話題になり、波及効果として《相田みつを美術館》の来館者数が増えたり、相田さんの本が売れたりしました(《相田みつを美術館》には友人と一緒に私も行ったことがあります。約5時間も観ましたよ)。

「ドジョウ」が「金魚」よりも格下に見られているための現象です。


【人種差別主義者アンデルセン

  アンデルセンの童話「醜いアヒルの子」(原題も「醜いアヒルの子」)は、アヒルの群れの中で生まれた小鳥がみんなとちがって黒色をしていて「醜い」のでイジメられて逃げ出すものの、逃亡先でも黒くて「醜い」せいでイジメられたため自殺しようと白鳥の群れに行ったところ、自分は「美しい『白い』白鳥」であることに気づいて、メデタシメデタシで終わる、というおめでたい話です。

  アンデルセンの美意識は、「黒」は醜く、「白」は美しい、というものであり、「醜いアヒルの子」などの童話は人種差別の発露です。

  黒いままではずっと「醜い」のであり、黒いことは、殺されてしまおうと決意するほどの不幸なのであります。映画『緑色の髪の少年』に見られる問題意識や、金魚は金魚、ドジョウはドジョウ、そのままでいいじゃないか、衆生だもの、という思想はまったくありません。

  このような、ドジョウは「醜い」という「美意識」があればこそ、それを逆手にとった演説は成功しました。しかし、そこには、相田さんがいう仏教思想は果たしてあったのでしょうか。あれば、“ドジョウだって金魚だってみんな生きていて友達なんだ”から、自分を金魚にたとえても良いでしょう。そうしないのは、「綺麗」な金魚とはちがって、ドジョウを「泥臭」く「綺麗」ではないと思っているからです。


【ドジョウは高級魚】

  ドジョウについ同情してしまいますが、値づけの土壌ではドジョウは立派な高級魚です。高値のときは中国産ウナギや養殖アユと同部類ですし、カンパチ・カツオよりも高く、サンマの何倍もの値がつくこともあります。金魚は物の数ではありません。謙遜したはずが、野田さん本人の意図とは裏腹に、高級魚に自分をたとえたことにもなるのですね。

  また、ドジョウは英語では「loach」(ロウチ)と言い、「マヌケ・馬鹿」という意味もあります(『ジーニアス英和大辞典』大修館書店)。ですから、「私はドジョウのような男です」と言えば、英語圏では「私は馬鹿です」と解釈されることもあります。値段の高低という“美意識”も使って言いますと、“高級なマヌケ”です。


【ペンは剣よりも恐ろしや】

  さまざまな人たちがいろいろな思惑によって原典などから引用するせいで、元の意味とはちがってしまう例は数多くあります。

  たとえば、「ペンは剣よりも強し」はその一例でしょう。そもそもは、権力者の「ペン」の力、「ペン」によって起案した命令書や法などの強制力によって死刑を科したり、投獄したりできる力は、それを持たない「剣」に勝る、という意味であり、巷間に使われているような、“正義のペンの素晴らしさ”、“ペンの正義が暴力に打ち克つ”、という意味ではありません。しかし、現状は意味が転倒しており、支配する側の言葉が、支配される側の言葉になっています。

  また、ラテン語の「メメント=モリ」(memento mori)は「自分が必ず死ぬことを忘れるな」ということであり、その本意は「今を楽しめ」(carpe diem)です。

  しかし、天国や地獄などの「あの世」、つまり「死」を想うキリスト教によって「死」が強調されたせいで、“どうせ死ぬのだから現世で楽しんでも虚しい、救済されたい”という思いを惹き起こした結果、「今を楽しめ」という「メメント=モリ」が、「早く死にたい」というような「メメント=モリ」になりました。日本人に馴染み深い「他力本願」は阿弥陀如来の誓いに頼って成仏することが真意ですけれど、一般には、無責任な感じがする「他人まかせ」の意味です。

  言葉は生き物ですから、本来の意味から変わって行ったり、複数の意味を持ったりするのも当然です。あきらかなまちがいは別として、そのような意味を使うのもいいとは思うのですが、原典の意味も把握しておくことも大切であると私は思っています。


【引用は正確に】

  原典などから引用する際は、次の4点をとりあえず押さえておく必要があるでしょう。

  ①原典から書き出すこと。
  ②孫引きならその旨を一筆すること。
  ③原典とはちがう私流の解釈で言及したいなら、その旨を断って引用すること。
  ④引用する言葉が、そもそもの意味か、あるいは、時間をへて派生したものかどうかを知っておくこと。

  そうしませんと、その言葉が持つ思想を取り逃がしたり、本来とはちがう意味になったり、真逆の意味になったりしてしまうからです。きちんと調べずに、条件反射的に物を言ってもいいじゃないか、にんげんだもの、というわけにはいかないでしょう。

 

《お知らせ その1》 
「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』」は、河村たかしさんという名古屋市長や、松井一郎さんという大阪市長が批判・介入したり、たくさんの脅迫メールや電話によって中止に追いこまれました。
  当拙文は、この「展示会」、そしてそれをめぐって起きたことに関する小論考です。

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《お知らせ その2》
  おなじことをあらわすにしましても、表現の仕方によって人々に与える印象がちがってくるものです。
  日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)に敗北しました。しかし、「敗戦記念日」と言わずに「終戦記念日」とすれば、「罪の意識」から逃れられたり、「敗戦」のことをあやふやにしたり、「嫌な気持ち」が減ったりなくなったりすることができるでしょう。
「敗戦」にきちんと対峙しないということは、何十年もの“大昔”のこととは言え、侵略・戦争への日本人の反省がそがれる、ということですから、「戦争をしたい支配層」にとりましては、「終戦」は良い言葉です。
「民営化」も、実態をごまかして、人々をたぶらかす表現です。実際は「私物化」なのに「民営化」ということによって、内実がとらえにくくなっています。当拙文ではそのことについてお話ししました。

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《お知らせ その3》
「私の書棚」という読書論もあります
  読書は楽しいものです。しかし、いろいろなことを勉強・吸収したり、楽しんだりしましても、自分で考えることもしませんと、みずからの考えは空っぽ、他人の思想は満杯、読めば読むほど愚かになってしまいます。この危険性についても言及した読書論です。

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