あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」のその後
【気骨ある言論人 孔融と禰衡】
『三国志』に出てくる孔融(こうゆう)と禰衡(でいこう)は、時の権力者や配下の者を、諧謔をまじえながら面とむかって何回も激しく批判したため、のちに処刑、殺された。そういうことを続けてゆけば殺されるとわかっていたにもかかわらず、ふたりとも最期まで体制批判をやめなかった。
ふたりに共通するのは勇気である。勇ましいことを、それも「面とむかって」ではなく、仲間内で悦に入って言っておきながら、脅迫されるや否や、命の危険を感じると、すぐに謝罪する人たちとはまったくちがう。日本は革命の歴史を持たない国だが、気骨ある言論人が歴史的にすくないことも原因のひとつなのだろう。
「表現の自由」は「内心の自由」に基づき、その制限は人心を縛るも同然である。「脅迫」や暴力による表現弾圧は他者への制圧であるが、それによって電光石火でシッポをクルッとまく言動は、己自身の抑圧にほかならない。「陳謝」した後には、堂々と言っていたあなたの意見はもうないのか?
【「表現の自由」を行使しないデモ】
2017年1月7日におきた「シャルリー=エブド襲撃事件」の後、「テロに屈しない」と主張し、「表現の自由」を訴えるデモが世界的規模でおこなわれた。「表現の自由」を重んじる人々や被害者との連帯の意思表示として「私はシャルリー」がスローガンとなった。
偶像崇拝を戒めるイスラムの開祖ムハンマドを偶像化(漫画に)して執拗に愚弄し続けた、風刺とは到底いえない漫画の数々を掲げればいいものを、そうはせずに「私はシャルリー」を示威(じい)する振るまいに、「表現の自由」の行きすぎ、そのムハンマドへの「愚弄」ぶりを見て見ぬ振りをしながらも、「表現の自由」は主張して、己の正義に酔う自惚れが透けて見える。
「テロ」を惹起した「漫画」群が「表現の自由」として“正しい”と思っているのなら、そして、「テロに屈しない」というのであれば、デモのときなどに、「表現の自由」を大いに発揮して、「私はシャルリー」のかわりに「『漫画』群」そのものを見せびらかすべきではなかったか。
【「表現の自由」を活かして議論を】
脅迫のせいで展覧会の開催が危ぶまれたなら、対処法は幾つもあったはずである。たとえば各関係者や自治体・警察と話しあって連携し、開催を続行するのもひとつの手であった。しかし、「芸術監督」がそれすらやらなかったのは、いや、やれなかったのは、臆病以前の問題、「芸術監督」をつとめる力、危機管理などの能力がなかったからにすぎない。
また、「不自由展」のことが落ち着いたとしても、公に姿をあらわす身でもあるがゆえに、その後の暮らしを考えると、“高等遊民”として能書きをたれる安穏生活を送ってはいられなくなるかもしれない、という「御心配」も「開催中止」の理由としてあったのだろう。
「表現の自由」が脅かされるときとは「表現の自由」が正に問われるときであり、いわゆる集合知をえるためにも「表現の自由」はある。それゆえ、今回のような絶好の機会を逃さずに、たとえば「不自由展」の企画として賛成者と反対者が意見を闘わせれば、賛成者にも反対者にも問題点があぶりだされて「真理」が見えてくるであろう。“人の心をえぐる芸術”とやらの「心」も見えてくるにちがいない。
[追記]
本拙文の脱稿後の今日8月17日、批評家の藤原直哉さんの論考「『表現の不自由展・その後』の炎上は、"世界水準の芸術"だった? ヒントとなる文脈を探して。」を読みました。
拙文をお読みいただいた方の御参考になるかと思いますので、よろしければ、ぜひこちらも御一読くださりませ。
[さらに追記]
「不自由展」の「芸術監督」は、クレーム用の窓口やスタッフすら用意していませんでしたし、「不自由展」の関係者や「表現」者と話し合いをすることなく「中止」を決めて実行しました。まるで「芸術監督」が自分の個展を開いていたかのような独断専行による自主規制ぶりですね。
今日2019年9月18日、「自称芸術家」のろくでなし子さんの、「不自由展」に関する論考を読みました。ろくでなし子さんらしいユーモアや諧謔のある批評です。
文中、「芸術監督」が、「ただ狂人が『ガソリンまくぞ』と言っただけで簡単に世界を無にできると証明してしまったことは、重く受け止めるべき」との指摘があるのですが、まさにその通りでしょう。
よろしければ、ろくでなし子さんのこの一文も御高覧ください。
《お知らせ その1》
おなじことをあらわすにしましても、表現の仕方によって人々に与える印象がちがってくるものです。
日本は第二次世界大戦(大東亜戦争)に敗北しました。しかし、「敗戦記念日」と言わずに「終戦記念日」とすれば、「罪の意識」から逃れられたり、「敗戦」のことをあやふやにしたり、「嫌な気持ち」が減ったりなくなったりすることができるでしょう。
「敗戦」にきちんと対峙しないということは、何十年もの“大昔”のこととは言え、侵略・戦争への日本人の反省がそがれる、ということですから、「戦争をしたい支配層」にとりましては、「終戦」は良い言葉です。
「民営化」も、実態をごまかして、人々をたぶらかす表現です。実際は「私物化」なのに「民営化」ということによって、内実がとらえにくくなっています。当拙文ではそのことについてお話ししました。
《お知らせ その2》
「私の書棚」という読書論もあります。
読書は楽しいものです。しかし、いろいろな事を勉強・吸収したり、楽しんだりしましても、自分で考えることもしませんと、みずからの考えは空っぽ、他人の思想は満杯、読めば読むほど愚かになってしまいます。この危険性についても書いた読書論です。