私と今日の世界 真沙美

MASAMI Twitter➡︎ @eyesmasami アメブロ➡︎ https://ameblo.jp/zarathu0310 大滝詠一さんと松田聖子さん・関取花さん・GLIM SPANKYが好きです。よろしくお願いいたします。

私の本棚

  知識は、ないよりは、あったほうがより良いことだろう。それが豊富であれば、卑近では資格試験や入学試験の多くを乗り越えることができる。これは、知識を保持する効用のひとつである。しかし、知識そのものが絶対的なものであるかとなると、必ずしもそうとは言えず、不確実な知識がすくなくない。


【富裕な水呑百姓】

  日本では、日本の学校教育により“農民は百姓である”と長いあいだ生徒たちに教えて来た。このことは一般的な人々の知識となっており、いわば常識でもある。しかし、この知識が非常識であって誤りであることが、日本中世史の大家である歴史学者網野善彦氏など一部の学者たちの調査・研究によって近年実証された。

  百姓は、その字面どおり「百」の「性」、すなわち一般人のことであり、農民のみを指して言うのではない。「古代はもちろん、中世でも百姓のなかには間違いなく非農業的な生業を“主”とし、農業を“従”としていた人々がたくさんいたことは明らか」[注1]であり、中には神主もいた。

  また、貧しさを容易に想像させる「水呑百姓」は“土地を持たない貧農”と言われるが、実体は、鉱山経営や製塩業など総合商社のようなことをしていた「水呑百姓」や、廻船人や職人・商人といった都市民である「水呑百姓」、というように多様であった。土地を持たなかったのは、「廻船や商売で大儲けをして巨大な富をもっているので、土地をもって耕作をする必要」[注2]がなかったからにすぎない。 公教育による「常識」・「知識」の正体とはかようなものだったのである。


【現代的リテラシー

  知識の確実性がそのようにあやふやである可能性がある以上、知識の入手方法がどんなものであれ、どんなに知識を持っていたとしても、その量が豊富であること自体、「良いこと」であるとは言い難い。そう言い切るには、知識の正確さを見極める力を通して得た知識であることが必要である。その「力」とは、具体的にいえば検証力や論理力・思考力、そしてそれらをあらわせる表現力や記述力などであろう。いわゆる現代的リテラシーである。これらが乏しいと、たとえば誤りをもちいてデタラメを言うことになる。

  いわゆる知識人・専門家が、その肩書きにふさわしい圧倒的な知識量を誇って駆使しながらも、みずからを裏切って非論理的なことをのたまう例がしばしばあるのは、詐欺的プロパガンダや捏造に見られるような作為は別として、知識の正確性をはかる力の欠如、論理力の貧弱さなどが原因であろう。つまり、論理の構築度と知識量は正比例しないのである。だからこそ、知識をあまり持ちあわせていなくとも、説得力のある、論理性の高いことを言う“賢者”の例がよくあるのだ。


【能動的な読書を】

「私の書棚」にある「書」の数々は、その規模が大きいにせよ小さいにせよ、多くの場合その「私」に影響をおよぼしたにちがいない。読んだ本の冊数が多いほど、その「私」は知識が豊かであり、物知りであると言えるかもしれぬ。しかし、その主張するところは、上述のように非論理であるという可能性は考えられうる。

我が闘争』や聖書のような思想、情感で味わう詩なら「非論理」でもかまわないであろう。「書棚を見れば、その人の思想がわかる」としばしば言われるが、「思想」らしきものは、たしかにある程度は把握できるにちがいない。もっとわかるのは、好み・嗜好である。しかしながら、「検証力」などまでは、その読書人の話を聴いたり、それと話したりするまでは皆目わからないであろう。

「私の書棚」について、自分が如何に学び、「私」の世界がそこにあると述べ、勉強量や知識量の“ものすごさ”を暗にほのめかしたとしても、ときには「書棚」の目を見張る蔵書量を公開して「知の巨人」ぶりを堂々と誇示したとしても、偏見に満ちた誤謬のもと女性差別を主張して護持する例もあり、つまるところおめかしにはならない。

  自分では考えないまま読書をすれば、頭の中には自分の考えは見当たらず、他人の考えでいっぱいになってゆく。受け身の読書では、本を読めば読むほど愚かになってしまう。知的に見せようとしても、知的に見えても、話したところで受け売りである。

  肝心なのは、読書によって、「論理力」などの総合力をどれだけつちかったか、ということであり、己の意志によって、学んだことも使って何を表現するのか、何をするのか、ということだ。このことに無頓着な読書であるならば、「私の書棚」はゴミ溜めとなり果て、その「私」は、矛盾・過ちがすくなくないミニマムな欠陥辞典にすぎなくなる。


[注1]網野善彦著『日本史再考』(日本放送出版協会)。

[注2]網野善彦著『日本史再考』(日本放送出版協会)。